働くということ

午前1時。最近はこんな時間まで起きていることが多い。前職では遅寝早起きが当たり前だったが退職してからは早寝早起きの習慣が身についてきていた。が、茅場町に通うようになって、遅寝遅起き。ある意味退化している。

 

掃除、洗濯、自称「中二病」のお姫様の就活の相談(僕も就活生なんですが…、たまに爆発してしまえと思う)、などなど。もろもろ終わって静かになってパソコンに向かうとこんな時間。タスクの続きを切りのいいところまでやりたいとかブログを書こうとかそれだけでも確実に2時になる。

 

今はこのタスク=仕事なわけだけど、誰かに強制されてこんな時間までやっているわけではない。できなくてもいいみたいに言われて来ているからやらなくたっていい。少なくともそういう選択ができる。掃除と洗濯以外はやらなくても困らないわけだ。働く意味がなければ働く必要はない。

 

ではこの不可解な自分の行動は何だろう。考えること6時間、午前7時…(うそ! おはようございます!)

 

初めて働いたのはいつだろう。子供のころ、お父さんの肩を揉んであげると10円もらえた。お母さんの肩も揉んで20円。当時、20円で近所の駄菓子屋に置いてあるドラゴンボールのカードダスが一回できた。子供の手に大人の肩は大きく、硬い。とても辛くて苦痛だったのをよく覚えている。でも、みんなが持っているようなキラキラのカード(通称・キラカード)がどうしても欲しくて、毎晩両親の肩を揉んで20円ゲットして翌日学校の帰りに友達とドラゴンボールのカードダスの前に並んだ。

嫌なこと=20円

20円=欲しいものが買える

 これが初めて自分のやることに対価をもらえた経験だった気がする。

だんだん慣れてきて面白さに変わる新鮮さがなくなってからはただ回数を数えて時間が過ぎるのを待つ苦痛。それなりに物欲も増してきてもっとくれてもええやんと思いつつもおばあちゃんの家であばあちゃんの肩を揉んだら100円もらえる衝撃を知るまでは両親の石のような肩を揉み続けた。懐かしい。

 

そして以前の職場は過酷な労働環境で朝は早いし夜は遅い。会社から出される売り上げ目標や指示なんて聞こえていない、朝礼をどうやってばっくれようか考えながら、常に自分なりの目標があってそれを達成するために頑張っていた。現場に出されれば一人。もう天国。自分の目標が会社の利益になる確信があったし、結果も出ていた。辛いがやりがいがあった。会社の不祥事に巻き込まれてその隠蔽体質に嫌気がさすまでは。

 

 

今はどうだろう。知らない世界に足を踏み入れて方向性を見失っているが、気持ちは常に前向きで明るい。この先目的や方向性を見失っても「何のために働くか」という問いに対して確かな認識がある。だからどんなところでも仕事をしていける。